男は塔の階段を淡々と上がっていく。その足取りは重く、いかにも憂鬱な音を立てていた。
 頂上へと辿り着くと、彼はそこに住まうものへと呼びかける。狭い小部屋の中央で眠っていた、大柄な甲殻類のような生物は静かに片目を開き、男の方を見た。
 それは一匹の、全身真っ青な色をした見事な竜だった。
「……お前か」
 竜はか細い声でそう言うと、琥珀色の瞳を再び瞼で覆った。男は果物の入った篭を竜の側に置くと、ごく自然な動作で竜の翼を撫でる。尖った形をした竜の翼は、触れてみると意外と滑らかな手触りなのだった。竜の美しい鱗が太陽の光を浴びてきらきらしている。
「きちんと、食べてるか?」
 男は心配そうな面持ちで尋ねる。竜は唸った。
「少しは、口をつけるようにしている。中々残さないようにするのは、難しいな……」
「いや、良いんだ、無理しても仕方がない」
 男は昨日持ってきた方の篭を覗き込む。中身の果物は、まだ半分以上残っていた。
「どの道、先は長くない」
 竜は自嘲気味に笑った。再び開かれたその瞳には、悲しげな弱い光が宿っている。
「そんなことを言うな……まだ、生きられる」
「生きてどうするのだ? 私は、何のために生きるんだ? 竜の予知能力がなければ生きられないという、人間達のためか?」
 竜が畳みかけるように尋ねると、男の表情がさっと固くなる。竜はわずかに翼を動かして、顔を背けた。
「済まぬ、余計なことを言ったな……」
 男は無言のまま、部屋の四方にある、大きな窓の一つへと向かって歩いていった。
 窓の向こうには、雲一つない青空が、どこまでも広がっている。その下には背の高いビルがぽつぽつと、天に手を伸ばすかのように建っていた。
「……少し、飛びたい」
 竜は掠れた声で言った。男は目を見開き、後ろを振り向いた。
「そんなことができる状態じゃないだろう」
「いや、できる。もしかしたら、これで最後になるかもしれない。お前を乗せて、この広い空を飛びたいんだ……」
 竜はふわりと翼を広げ意志を示すかのように、男をしかと見据えた。男はしばらく弱った身体に無理を与えようという竜の姿を、呆然と眺めていたが……やがて頷いた。
「分かった。俺もお前と一緒に、行こう」

 竜は男を背に乗せて、二、三度大きく羽ばたくと、傷ついているはずの身体を軽やかに持ち上げ、青空へと飛び立った。吸い込まれるような空の青色。翼の横を吹き抜けていく風が、とても心地良い。
「……どこへ行くんだ?」
 男は尋ねたが、返事はなかった。どうやら南へと向かって飛んでいるようで、高層ビルが立ち並び車の行きかう街から遠ざかっていく。すると今度は、広大な森が地上を占拠していった。
「久しぶりだな……こうしてお前と一緒に、空を飛ぶのは。仲間達が生きていた頃は、毎日のようにお前を乗せて、色々なところを旅したものだが……」
 竜は濃い緑色の森を見下ろしながら、懐かしそうに言った。男も思いを巡らせる。まだ竜達が沢山いた頃のこと。竜の予知によって、人々が未来に希望を持ち、幸福に生きていた時代のことを……
 竜は人々の道標だった。これから世界がどう変わっていくかをいつも正確に予知し、良い結果を導いてきた。豊かになり新しい発見が次々と起きると言う予知があった時は、人々は希望に満ち溢れよく助け合うようになり、災害や事件などが起きるという予知があった時は、人々はいつもそれが起こす悲しみを最小限にするよう努める準備ができた。人々は、竜達のおかげで、いつも一番良い未来を選択することができているという、大きな確信を持っていた。
 いつ頃からだったか……竜の予知に群がる人々が、逆に竜を傷つけるようなことを平気でするようになったのは。人々は、竜を痛めつけ人間に都合の良い言葉を言わせたり、予知によって起こった出来事を竜の責任とし責めたり、竜を恐れるべきものとして閉じ込め見世物のように扱うようになった。竜達は、段々と自分の知っている未来に関して、口を閉ざすようになっていった。
 異変はそれとほぼ同時に進行していた。竜は生きる力を失い、病にかかりやすくなり、急速な勢いで死に絶えていった。人間達がそれに気づき、今更になって竜を保護し始めようとしたが、時既に遅く、竜は今男が背に乗せてもらっている青い竜……彼だけになってしまったのだ。そしてこの竜もまた、今では不治の病に侵されている。竜の力を頼り、傷つけてでも縋り付いてきた人間達は、結局竜の絶滅という現実を、目の前に突きつけられている。確実な幸福の道標であったと信じていたものが、失われていく様子を目の当たりにしているのだった。
「……? ここは……?」
 男は唐突に、異変に気づく。森を抜けると、目を疑うような景色が、眼下に広がっていた。広漠とした平野……その真ん中に粗末な布を巻いただけの服を着、薪を使って火を焚き、原始的な洞穴に暮らす人の集団を見かける。
 一体、これは何だ。原始的な社会? とてもあり得ない光景だった。
 そこまで考えてはっとする。これはこの青い竜が見せている、地球の過去の姿なのだと感じ取り、男は息を呑んだ。竜はやはり何も言わず、愛おしむように景色を眺めながら翼をはためかせている。
 しばらく行くと、今度はぽつぽつと村が見えるようになった。広い畑があり、汗を流しながら農作業をしている人々がいる。ぼろぼろのかかしが空を見上げている。走り回る子供達の笑い声が聞こえる。
 子供達の何人かはこちらに気がつき、物珍しそうに眺めたり、手を振ってきたりした。男は戸惑いを覚え、目を細めた。何故だか酷く懐かしい気持ちが胸に込み上げてきた。
 のどかな村の様子をいくつか過ぎていった。今度は工場が立ち並ぶ街へと移り変わっていった。細々と上がってゆく煙と、窓の向こうにちらりと見えるせっせと働く労働者達……紡績工場のようだった。労働者達は疲れを露わにした暗い表情で黙々と糸を紡いでいる。時折怒鳴り声も聞こえてきた。
 そこへ、しゅっと視界を何か黒いものが横切った。男は何か不穏な胸騒ぎがし、弧を描いて再び視界に入ってきたそれを見ると、思わず叫んだ。
「あれは……!」
 爆撃機が、速やかに街へと向かった。待ったはなしだった。丸い無機質なものが、あまりに無造作に工場の上へと落下していった。
 周辺に強烈な閃光が溢れかえった。光の洪水に男は目を瞑った。一瞬の後に街は炎に呑まれ、日常は地獄へと変わった。
 男は変わり果てた世界を食い入るように見つめていた。ほとんど無意識に強く拳を握った。それでも身体ががくがく震え始めたのが分かった。しかしその恐ろしい風景すら置き去りにして、竜は前進し続ける。
 竜はその眼を鋭くし、ずっと守っていた沈黙を破って、絞り出すかのように言った。
「世界は、美しい。だが……」
 気づけば濃い霧の中へと侵入していた。竜は一向も構わずに、まっすぐに飛んでいく。何も恐れるものはないかのように、その羽ばたきを加速した。男は顔にまとわりついてくる水滴を拭った。
 竜は沈黙を置いた後、言葉を続けた。
「その美しさを、知れば知るほどに、孤独に狂いそうになる……全ては過ぎ去り、形を変えていくが、その過去で見てきたものを現在にいながら忘れられず、未来に消されていく現在を憂う……それが、竜という生物、だったのかもしれぬ……」
 霧を抜けると、竜と男はようやく現代の景色へと帰って来たのだった。飛行機がすぐ真下をごおおと音を立てながら飛んでゆく。ビルが立ち並ぶ中、無数の人々が忙しなく目的地へと向かって歩いていた。大型のテレビジョンが大げさに抑揚のついた口調で今日のニュースを映し出している。
「お前は……」
 男は竜に向かって、何かを尋ねようとした。しかし続きの言葉が喉をつかえたように出て来なかった。やがて竜の棲みかである古びた塔が間近に見えてきた。しかし竜はそれも通り過ぎ、どこに向かうのか分からない旅をまだ続けようとしている。
 都市を抜けると……不思議なところへ出た。彼らは、深く温かい暗闇に包まれていた。塗りつぶしたような黒い世界の中に見えるものは一つとしてない。しかし何とも例えがたい、海底にでも漂っているようなしーんという音が、耳の中で絶え間なく響いていた。
 更に進み続けると、もっと奇妙なことが起こった。彼らの周りを踊るようにゆらゆらと揺らめく炎が、輪になって囲んだのだった。どこからか、子守唄のような優しい音が聞こえてくる。男は少し瞼が重くなるような気がした。
 竜は男に言った。憐れみの込められた声で。
「人間よ……悲しき因果を背負い、それでも懸命に生き続ける、カインの末裔よ。今ここで真実を伝えよう。本当は竜などという生物は……存在しないのだ。最初から、最後までずっと。存在を信じられていただけだった」
 男は驚いて、竜を凝視した。竜は先程より穏やかな様子だった。
「しかし、お前はここにいるだろう?」
「そのように見えるだろう。しかし、それは最早関係がない」
 竜はゆっくりと目を閉じて、優しい調子で言った。男は理解できず、ただ首を横に振った。
「分からなくて構わぬ……新しい時代がもう時期に来るのだから」
 目の前に丸く輝く光の球が現れたのは、それから間もなくのことだった。近づくにつれ光の球はじわじわと大きくなっていった。
 男はこれが竜との最期の別れになると、直感で悟った。光の球はどんどん大きくなっていき、今にも彼らを飲み込むほど近くに来ていた。
 男は眩しさをこらえながら先程出かかった質問を、縋るような心持ちでぶつける。
「お前は……人と共に生きて、幸せだったのか? 幸せだったと言ってくれるか?」
 光に包まれた真っ白に彩られ何も見えなくなった頃、まるで遠くからのように竜の声が聞こえてきた。
「答えるまでもないことだ……人が竜を求めたように、竜も人を求めた。人はやがて竜がいたことを忘れるだろう。しかし、それで良い。例え忘れられてしまっても、竜はずっと目に見えぬ存在として、人と共にあり続けるのだ」

 男は塔の最上階で、一人きりで佇んでいた。果物の入った籠がすぐ側に二つ置かれている。
 男は茫然とただ何もせず窓の外をじっと見つめていた。どうしてなのか……まるで親しい友達を失ったかのような寂しさに、いつまでも胸を締め付けられてならないのだった。


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